1 小野葉桜(おのはざくら)とは
小野葉桜は、本名を小野岩治といい、明治12年6月15日
美郷町西郷(旧西郷村)田代の農家の長男として生まれまし た。短歌を愛し、東郷町出身の歌人「若山牧水」とも親交がありました。田代小学校や美々津の小学校で代用教員を務め、一時は上京して医師か薬剤師になるためにドイツ語を学んだり、向学心に燃え希望にあふれていました。そんな彼の運命を変えた最初の不幸が日露戦争の召集令状でした。戦争が終わり美々津に帰って薬局や美々津小学校に勤めるなどして明治39年に西郷に帰郷し、文学を断念したかのように役場前で薬局を開業し養蚕事業にも従事しながら、青年会を組織して指導するなど精力的に活躍しますが、人望を得て28歳で郡議会の議員を務めます。ところがそんな折、人力車の事故で頭部を強打し、在任1年あまりで辞任せざるを得なくなりました。やがて頭の病が回復し美々津町へ移り美々津町役場の職員となり、病気と貧困の中、唯一の心のはけ口として再び短歌に情熱を注ぎ、牧水を通じて東京の歌誌にも紹介され、歌人として将来を期待されるようになりました。
黄に膿みて海より月の出でければ
誰いふとなく浜に走れり
しかし、作品集を出そうとしていた矢先に頭の病が再発し、僅か34歳にして歌人としての生命をとじました。以後は歌を詠むことはなく病も一歩一退のまま約28年間の後、不遇のうちに63歳の生涯を閉じました。
葉桜はその存在すら忘れ去られようとしていましたが、昭和44年に河野慶彦氏(美々津出身)が書いた宮崎日日新聞の「薄幸の歌人、小野葉桜」という連載記事により、広く紹介されました。その後、亀田功氏を会長とする「小野葉桜遺稿集刊行会」により葉桜の遺稿の収集と編纂が行なわれ、昭和62年に遺稿歌集「悲しき矛盾」が発刊されました。本作品は、村内外から多くの反響を呼び、短歌界からも高い評価を受け、葉桜が親交のあった牧水に劣らぬ歌人であったことが立証されました。
2 葉桜顕彰会
郷土の誇りとする歌人葉桜の業績を永遠に顕彰し、後進の亀鑑と地域文化の向上に資するため昭和63年に「葉桜顕彰会」(初代会長、亀田功氏)が設立され、様々な顕彰活動が行なわれています。
主な顕彰活動
葉桜短歌賞
歌人葉桜を広く永く顕彰するとともに、地方の詩歌の発展と文化の向上を願って平成元年から毎年募集し、審査・表彰しています。全国から多数の応募があり、歌人伊藤一彦氏に選者を務めていただき、葉桜まつりにおいて選評をいただいています。
葉桜まつり
毎年「文化の日」である11月3日に盛大に開催しています。歌碑祭、顕彰会総会、葉桜短歌賞入賞者表彰式、選評と講演、葉桜を偲ぶ交流会を実施しています。
葉桜かるた
生徒児童がかるたに接することで、葉桜文学に身近にふれあう機会を与え、豊かな創造性を培うものです。また、毎年かるた大会を開催しています。
葉桜のうた制作
平成3年に葉桜50回忌を記念し、代表的な短歌11首を5曲に延岡市出身の寺原伸夫先生に「葉桜のうた」を作曲していただきました。町内のコーラスグループ「コールテェリーナ」により葉桜まつり等で歌い継がれています。